くまのばしょ

同じ地獄で待つ

友人宅のごはんと味覚の練度について

味覚にも練度があることを実感させられた出来事があった。

週末に友人の家にお邪魔して、ご飯をご馳走になった。友人は日本酒を中心にお酒をたくさんコレクションしている人で、お酒を美味しく飲むために数日前から肉塊を仕込むような、それはそれは丁寧な酒飲みだった。

数日前に送られてきたメニューは、

タン先ユッケ

ししとうとナスの焼き浸し

大根と牛タンスジの煮込み

伊勢海老のほぐし身

旬の魚の刺身  

鴨すき焼き風、舞茸のローストを添えて

氷菓

牛タンロースト

だった。

夥しい饗応、という言葉がぴったりで、楽しみな反面怖かった。私はこれらの味がちゃんとわかるのか?と。

 

当日はとても楽しかった。

たくさんの美味しいお酒で程よく酔い、美味しいごはんで満たされていたので、残念ながら具体的なことはあまり覚えていない。昔読んだ小説に「人は本当にうまいものを食べると、笑うことしかできなくなる」ということが書いてあったが、まさにそんな状態だった。

 

その中で覚えていることが、「お酒と食事の相性」「調味料の重要性」「お酒の味の違い」だ。

 

まず、「お酒と食事の相性」だ。

友人は本当にかいがいしい人で、「このおつまみにはこのお酒」「そっち(食事)にはこれ(お酒)」という風に、ペアリングを大変重視していた。すべてのメニューにつき少なくとも2種類はお酒を紹介してくれていたように思う。一方私は、ペアリングはイヤホンにするものしか知らず、「そんなに味変わるもんかね」と思っていた部分もあった。友人ごめんなさい。しかし友人の勧め通りに食事とお酒を合わせると驚いた。食事の味の奥行きが変わったと感じたからだ。食事単体で食べたときに自分が取りこぼしていた味が、お酒によって拾われて味として認識できるようになった、そんな体験だった。

 

次が、「調味料の重要性」だ。

私は元来、「お好みでお使いください」という調味料がどうにも苦手だった。何を、どのタイミングで、どれくらい使えばいいのかわからないし、なにより食事の手を止めるのが面倒くさくて仕方なかった。そのままでも十分美味しいし、私はいいかな、と手を伸ばさないことが多かった。しかし今回の家主の友人は本当にかいがいしい人で、「これ(食事)にはそっち(調味料)をかけるとうまい」ということをたくさん教えてくれた。そしてその通りにした食事は大変美味しく、調味料を使うのが面倒くさいなどと言っていられないほどだった。先のお酒でも述べたが、味の奥行きが全く異なるものになっていった。個人的には生胡椒が一番好きだった。

 

最後は「お酒の味の違い」だ。

私はお酒に強い方ではない。だからお酒をたくさん飲んだ経験は少ない。当然お酒の味の違いもそこまでわかっていなかったし、今もよくわかっていない。ビールは苦くて炭酸がきついので好きではない、くらいの超低解像度だ。だが友人の家ではたくさんのお酒を少しずつ味見させてもらうという大変贅沢な体験をさせてもらったおかげで、「これは美味しい気がする」「こっちはなんか微妙」という好き嫌いぐらいは分かるようになった。わかったからなんだということかもしれないが、知ることができたのは単純にうれしい。

 

これらを踏まえると、味覚を感じ取るにも練度というものが存在するのだなあということを強く感じた。甘味、塩味、酸味、苦味、うま味のそれぞれの中間、グラデーションの部分にも味が存在し、それを感じ取るには訓練が必要だと思った。正直私は味をたくさん取りこぼしていいたと思う。だが、「なにかは分からないがそこになにかがある」ということを感じ取ることができたのはとてもうれしかった。

 

しかしいろいろなお酒を開けてもらえて大変うれしかったのは事実だが、友人はあの開封済みのお酒をどうしたのだろうか。一人で飲み切ったのだろうか。次お邪魔する機会があったら、今度の手土産はヘパリーゼにしようと思う。