くまのばしょ

同じ地獄で待つ

語り得ぬものを語り続けることについて

 

自分語りをする。

 

家族との折り合いが悪く、数年前に家出同然に実家を出た。

過干渉気味の家族だったこともあり、私が家を出たことはかなりの騒動になり、最終的に一家離散した。

その後精神疾患の診断を受けたり、職を転々としたりして、今に至る。

 

当時に比べれば、今はとても調子が良い。

しかし最近少し困っている。

他人の苦しみがよくわからなくなってきたのだ。

具体的にいうと、配偶者からのDVに苦しむような人、親戚から理不尽な扱いを受けている人が、なぜ家族と縁を切らないのか、理解できなくなってきたのだ。

そればかりか「なんで家出ないの?」「結局その程度なんじゃないの?」と思うことさえある。「私はこんなに苦しんできたのに、お前ときたら」という気持ちが止められないのだ。

 

以前友人にこの話をした時は、「みんなそんなもんじゃない?」と言われた。

それが優しさゆえなのか、本心なのかは分からなかった。

 

私はこの気持ちを持つ自分が好きではない。他人の苦しみ、他人の地獄を土足で踏み荒らすべきではないと思っているからだ。(それは私が両親にされて嫌だったこととよく似ている。)それぞれにはそれぞれの事情があり、「事情ってなんだよ」と言いたくなる気持ちも含めて、踏み荒らすべきではないというのが、マナーであると思う。そのマナーを守っていきたいと思う。

「あれ?」と思う地獄、「もっと頑張れるでしょ?」と思うことに対して、鈍感でありたい。

 

かといって、地獄への言及を避けるべきだとも思わない。共有することが行動につながる可能性は大いにある。語り得ぬものを語り続けること、語り得ぬものをについての語りを聞くことで、救い合えるようでありたい。これは祈りである。勿論、相手への敬意を払うことを前提として。

 

参考文献 野矢茂樹ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』を読む』ちくま学芸文庫

 

 

 

まだ読み切れてないんだけどね。

 

しゃけとば